「負け」は「精神的な死」
保育園に行くのは好きだった。
家にいるとやはり「母に怒られる」というのがあったのだろう。
毎日楽しくバスに乗って保育園に行っていた。
保育園でも、絵本を読んだり、お絵かきをしたり、うさぎ小屋のうさぎに草をあげたり、アヒル小屋のアヒルを見るなど、ひとり又は少数人での遊びが好きだった。
庭では元気な同級生がやはり活発に遊んでいたが、仲間に入って一緒に遊ぶという事は好きではなかった。
家でのできごとの積み重ねから、「勝負事に負ける」のが嫌で仕方なかった。
「負け」は言い分を決して聞いてもらえないことを意味する、精神的な「死」のようなものだった。
どんな小さな勝負事でも同じだった。
じゃんけんも、鬼ごっこやかくれんぼの鬼決めも、かけっこの競争も「たかが遊び」と捉えることができなかった。
負けると本当に辛かった。
なんで、世の中に「勝ち負け」があるんだろうと思った。
こんなに辛いことはしたくない。
なるべく競争ごとに関わらないようにした。
どうしても関わらざるを得ない場合は、常に「負けても悔しくないし」と、負けに対しあらかじめ心に防衛線を張ることにした。
これが、人間関係を構築する上で、深く関わろうとするほどにうまくいかなくなる原因になっている。
家に帰ると怒られる
「家に帰ると怒られる」
許してもらうまでの苦痛と、放っておかれる孤独を何度も味わった私は、家に帰ることが大嫌いになっていった。
父が帰ってくるまでの、母と弟との時間が恐ろしかったのだ。
祖父母の家が近くにあり、母は昼間仕事に行っていたため、私は保育園から祖父母の家に一旦帰っていた。
祖父母は優しい。怒りはするが、外に出すという事はしない。
家に安心感を感じられなくなった私は、母親が迎えに来ると「祖父母の家に泊まる」と泣いて駄々をこねた。
母はそれがまた面白くなかったに違いない。
おかげで、無理矢理家に連れて帰られることはなく、私はその日一晩の安心を手に入れることができたのだった。
寝るときは祖父の隣で寝た。
祖父は寝るときに必ず「ももたろう」の話をしてくれた。
毎回「ももたろう」だったが、私はそれが好きだった。
ここはいてもいい場所。安心して居られる場所。
やっぱり素直に「ごめんなさい」は言えなかったと思うが、
多分あってもなくても許してもらえたのだ。
そうして、母のところは、私が気持ちを吐き出せない場所になっていく。
外に出される
弟が生まれた後。
何歳の頃かは定かではないが、とにかく母から怒られていた記憶しかない頃がある。
何をして怒られたのかは覚えていないが、母の手を煩わせるような事をしたのだろう。
夜によく外に出された。
家の中に入れてもらえる条件は「謝ること」。
父が帰ってくるまで、外で泣き叫んだ。
一向に泣き止まない私に、母は家の中から「うるさい!近所に迷惑でしょう!いつまで泣いているの!」と言った。
幼心に、自分が悪いことをしたことはわかっていた。
でも、自分の言い分を聞いてほしいという気持ちが勝り、一向に謝ることができなかった。
外で泣き疲れているうちに、父が帰ってくる。
「また出されてるのか」と言って、一緒に家に入れてくれる。
早く謝りなさいと言われ、不本意ながら「ごめんなさい」を言い、そこでようやく許される。
私の言い分は聞いてもらえたことはなかった。
私は「ごめんなさい」という言葉が大嫌いになった。
その言葉は、理由を聞き入れてもらえず、敗北を宣言する意味の言葉となった。
その後の人生においても、「いかに『ごめんなさい』を言わずに済むか」が私の最重要テーマとなった。
人を怒らせない、人と深く関わらない、一般的に「良いこと」とされていることをする、まじめでいる。
人生の処世術だった。
一番最初の記憶
まだ弟が生まれていなかった頃だろうか。
家からすぐのところに、公園があり、そこに母とよく散歩に行っていた。
公園には同じくらいの歳の近所の子どもたちが、鬼ごっこなどで遊んでいたものだった。
私は内向的な子どもだったので、一人で砂場で黙々と遊ぶのが好きだった。
母は、そんな私のことを心配したのだろう、「お友達と一緒に遊んできなさい」と、私を彼らのところへ連れて行った。
そこから先のことは覚えていないが、とても嫌だった記憶がある。
鬼ごっこなどやりたくないのだ。砂のお城を作っていた方が楽しいのである。
でも、お母さんはそれを嫌がっている。
お友達と遊ばなければならない。
そうするとお母さんは喜ぶ。
それが「嫌だ」を押し込めた、一番最初の記憶だ。
経営計画作成合宿にて③
合宿では最終日に、1人5分で立てた計画の発表を行う。
他社も合同だ。
この合宿の参加者の人々は、一般的に見るとちょっと変わった人が多い。
ほとんどみんな、人生においてものすごく辛かったことを経験していて、
そこから「自分の人生を生きる」ために楽しんで仕事をしている。
発表からも、その想いがたっぷり伝わってくる。
"企業は成長しなければならない"
"利益の最大化に努めなければならない"
"従業員満足度を高め続けなければならない"
よく聞くフレーズで、誰も反論のしようがないこの正論を、
ここでは誰一人口にしない。
「ねばならない」ではなく、けれども「自然にそうしている」。
誰もが純粋に、自分のために・家族のために・お客様のために仕事をしているから、とてもイキイキしているのだ。
私はどうだっただろうか。
ずっと「自分のために」生きていると思っていた。
違うな、「思いこもうとしていた」。
本当は、いつだって誰かに評価してほしかった。
褒めてほしかった。認めてほしかった。
「誰かの役に立ちたい」と願ったのは、
「役に立っている自分」に安心感を得たかったからだ。
「独立して自活したい」と行動したのは、
「誰かの世話になる」ということから逃げたかったからだ。
自分一人でも大丈夫と認めてほしかったからだ。
どこまでがんばればいいかわからなかったから、
「認められる」結果になるまで黙々とやり続けたのだ。
砂漠の土のように、いつまでも満たされない。
自分自身で自分を認めることが、「フリ」はできても、どうしてもできない。
自分の発表の番、
「やりたいことの成文化」
というスライドを表示させながら、
生まれて初めて人前で、
泣きながら「認めてほしかった」と言った。
「やりたいことをやる」という言葉は、
自分の人生を生きている人にしてみれば
「何を甘えたことを。そんなことで食っていけないだろう」という言葉だ。
でも、他人の評価を頼りに生きてきた私には、
「自分の人生を生きる第一歩」のとんでもない願いだった。
誰が何と言おうと、不安なく「やりたい」「やりたくない」が言える。
嫌だという感情を、溜め込まずに処理できる。
自分の人生に自分で責任を持てる。
自分の機嫌で相手を振り回さない。
人を許すことができる。
「嫌われるかもしれない」「仲間外れにされるかもしれない」と怯えながら、和を乱さないようにと立ち振る舞う必要が無くなる。
相手は相手、自分は自分と境界を引くことができるようになる。
恐怖を感じずに「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えるようになる。
「借りをつくってはいけない」から解放される。
相手の想いに共感できる。
温かいコミュニケーションを築ける。
そんなことができるようになりたい。
子供がお腹にいる実感を経て、先の見えない不安の中で、隠しきれなくなり出てきた願いだ。
我が子に対して「私を認めてほしい」と押しつけるようになど、絶対になりたくない。
私の代で終わりにする、必ず。
経営計画作成合宿にて②
今回の合宿では、いつもならばすぐにPC作業に取り掛かるところを、
社長の「お互いのことを話そう」という提案で丸々1日をかけたミーティングになった。
まずは社長の創業に至るまでのあれこれを聞く。
その次に、先輩の人生の話を聞いたのだが、これが実に衝撃的だった。
35歳になるまで、ずっとイライラする原因がわからず過ごしてきたこと。
その根本原因が母親にあったことがわかり、直接対決したこと。
結果自分の機嫌を自分でコントロールできるようになったこと。
あ、こんな話しても大丈夫なんだ。
そう思えた瞬間に、私も自分のことを話そうと思えた。
うまく話せるかわからないけれど。
私は、辛かったことや悲しかったことを笑って話そうとする節がある。
それは、そんな話をすることで場の空気が重くなるのが嫌だったし、
そんなしょうもないことで悩んでいるのかと思われる(と感じる)のが嫌だったから。
そして、そんな過去をもう客観的に分析できる大人な自分がいる、そんなことはもう解消したんだと思いこみたかったからだ。
先輩の話を受けて、私の番。
いつものとおりに冷静に話そうと思っていた。
「ずっと無価値観を持って今まで生きてきました」
「"○○だから、ここにいてもいい"という、条件あっての人生観です」
そこまで話し、一番過去の記憶を口にしようとしたら、感情がぐっと込み上げてきた。
「泣いたらみっともない」
そう抑え込む自分がいて、喉元まで出てきた感情をまた飲みこんでしまった。
涙が出ない部分の人生の話をして、その日は終わりになったが、
「顔を出した感情をもう抑えるのはやめにしたい」、
「生まれてくる子供に、今のままでは同じ辛さを味合わせてしまう。それだけは絶対に嫌だ」
そう強く思っている自分に気がついた。
全員の話が終わり、残り少ない時間で計画を立てることになった。
「型にはめずに、何でもいいよ。質問は?」と社長が言った。
「…本当に何でもいいですか?」と私は聞いた。
そして、私が1時間かけてPCに吐き出したものは、
とてもじゃないけれど
「計画」
などとは言えないものだった。
「やりたいことの成文化」
本当は自分はどうしたいのかを文章にしたい、このひとつだけ。
このひとつだけを持って、計画の発表に臨むことになった。
経営計画作成合宿にて①
年に1回、会社では経営計画を作成する合宿へ行く。
2泊3日、他の複数社と合同で行う合宿である。
今年はなんだか行くのがすごく憂鬱だった。
出産の先のことが全然見えないからだった。
************************************
私の仕事は継続型の企業コンサルティング業務である。
1人で相手先企業に入り、1年間~支援をする。
入社3年目、自分の担当先が4社ほどになったところで、妊娠が発覚した。
それを期に、会社は「個人担当制」から「チーム担当制」に舵を切ることに決まった。
チーム担当制の意味は2つ。
・出産その他事情で継続支援に穴が開く期間がある場合、別の人が代わりに担当する
・営業とコンサルタントを分離する
このことが発表された際に、私はものすごくもやもやした気持ちを感じた。
しかし、その正体が言語化できないために、その提案を黙って飲みこむしかなかった。
コンサルティングは生き物である。
また、コンサルティングは「コンサルタントその人」が商品である。
「何をするか」よりも、支援の中で「人の感情がどのように動いたか」。
目的に到達するまでの過程がものすごく大切だと私は考えており、
コンサルタントが変わるという事は、その流れを一旦分断し、1から構築し直す事に等しいと感じた。
また支援は、営業を始めた瞬間から継続している。
「この人にお願いしたい」から、クロージングとなるのである。
そのため、営業担当とコンサルタントが違うという事は、お客様の気持ちを最初から裏切っているのと同じような気がした。
それが私の中の前提だっため、「チーム担当制」に大変な違和感を感じたのである。
ただし、この提案が生まれたのは「私が妊娠したこと」がきっかけであった。
出産後も変わらず仕事を続けていけるように、と配慮してのことだった。
「私の為にしてもらったこと」。
でもそれは私自身が納得していないこと。
こんな中で、来季の計画を立てなければならないのかと考えるとしんどかった。
もっと言うと、計画なんて立てたくなかった。
そんな想いで合宿入りをすることになる。