家を出たい

高校2年生の頃に、環境問題に興味を持った。

環境問題と言っても、CO2排出削減や海洋汚染など理系分野ではなく、「どうしたら人類が身近なところから環境に優しい行動ができるのか」という、人の心にフォーカスした部分だった。

(この考え方も多分に

「"良いこと"をしている自分」と

「自分勝手に生きている周囲の人々」(許せない)

という感じ方から来ている)

 

学べる大学の学部はどこかと探し、どうやら「総合政策学部」というぼんやりした名前の学部がそれを学べそうだという結論に至った。

 

進路相談で先生にその話をすると、先生はしきりに地元の大学の教育学部を薦めてきた。

年配の先生だったからだろうか、「訳の分からないものではなく、地に足着いた将来の仕事に直結する学部を選びなさい」という考え方があったのかもしれない。

 

しかし私はまだ当時、教師とか医師など名前の付いた職業に就くというイメージが持てなかった。

そして、県外の大学進学を視野に入れて勉強することになる。

 

今思うことは、もしかしたらその時「とにかく家を出たい」という思いがあったのではないかという事だ。

母の元を離れたい、世話にならずに一人で生きたい。

 

最終的に受かった大学は、新幹線通学をすれば実家から通える場所ではあった。

それでも一人暮らしをすると決めたのは、やはりその気持ちが大きかったからなのだと思う。

安心できる場所を作りたかったのだ。

薄っぺらい関係

高校では、人ととにかく薄っぺらい関係でいることを望んだ。

少しでも深い関係になると、自分の自己中心さが顔を出し、またここでも嫌われてしまう、という怖さからだった。

しかしながら、皆が協力しながら一つのことを行っている空間への憧れは消えることはなく、高校でもまた生徒会に所属することにする。

そこでもきっかけは忘れたが、また誰かを怒らせ、居づらくなり、結局自分から孤立を選び、自分一人でできる仕事を黙々としていた。

 

部活には入らなかったので、クラスメートとの関係は、ゆるく良好なものだった。

心を揺さぶられない場所、自分の身勝手を制御できる関係性の場所は、非常に居心地が良かった。

 

その分、高校生の頃の記憶はほとんどない。

辛かった記憶を残さない代わりに、楽しかった記憶もほとんど残さないようになってしまった。

「良いこと」と「諦め」

「認められたい」思いがものすごく強い私は、高校生になってからは、誰が見ても"良いこと"に対して積極的に取り組むようになった。

 

例えば、「面倒事を引き受ける」。

生徒会はその一つだった。選ばれた人だけがやっている感もたまらなかった。

多くの生徒に気づかれない所で、インフラを支える「良いこと」をやっている、という感覚が心を満足させた。

 

例えば、「自主的に学校玄関の雪かきをする」。

家では朝一歩も動かないのに、学校では自主的に行った。

「皆が転ばないように」と当時はそう思い込むようにしていたが、やはり感謝されたかったし、褒めてもらいたい気持ちからだった。

 

「学校で中越地震の募金活動を行う」もそうだった。

"正義感"で"褒められたい自分"を上塗りし、必死で見ないようにしていた。

 

しかし、この「良いことをやっている」思いは、

往々にして「やらない人」に対する攻撃に向かう。

 

なんでやらないんだ!(褒めてくれないんだ!)

こんなにしてやっているのに!(認めろ!)

 

その怒りの気持ちを感じることも嫌で、

「そんなことを感じる自分はみっともない」と

さらに感情に蓋をする日々。

 

辛いことがあった時は自室にこもり、一人でワンワンと泣いた。

そうして、泣き疲れて「諦めた」。

 

気づいたら、何事においても「自分がすべて悪い」と思いこむことで解決する、という思考が出来上がっていた。

チームが苦手

「人を見下す」ということを覚えた私は、

辛い出来事があった時、心の中で常にそうやって平常心を保とうとしていた。

 

「チームプレー」というものが苦手だった。

"認めてほしい"という気持ちが強いから、チームの連帯よりも、自分の我を通してしまう。

 

中学校の生徒会で、放送室の機材を使って文化祭のオープニングを作っていた。

エンディングを作る班もいて、彼らも放送室を使いたがっていた。

融通して放送室を使えばよかったものの、なぜか私は無性にエンディング班に放送室を貸したくなく、要望を突っぱねていた。

生徒会長が「いい加減にしてくれ」と怒り、私は「やってしまった!」と放送室を明け渡した。

それ以降、生徒会にはなんとなく居づらくなってしまい、フェードアウトするようになっていった。

 

もちろん、生徒会長は私の人間性を非難したわけではない。

行動に対して怒ったのである。

 

しかし、

怒られる=謝らなければならない=その場所での敗北、認められない

イメージが強固に固まっていた私は、

人格否定のように感じ、そこに安心感を覚えられなくなっていった。

 

今後幾度となく、同じことを繰り返しては、逃げるようになる。

自己中

小学校の頃、「自己中」と呼ばれ、無視されたことがあった。

確かにかなりわがままで、融通が利かず、頑固で、プライド高く、協調性に欠ける部分があり、「謝れない」性格だったため、今となっては「それも仕方がないことだ」と思う。

 

当時は小学校が世界の全てだから、「無視をされる」というのは大変恐ろしいことだった。

しかし、自分の感情を抑え込むことを覚えていた私は、

「寂しい」「悲しい」「辛い」

という感情をなかったことにし、

「無視をするなんて、なんてレベルが低いのだろうか」

と上から目線で捉えるようにしていた。

 

子どもの「無視ごっこ」は長くても1週間程度である。

無視される状態が終わった後、

「自分からは絶対にやるものか」とだけは心に誓った。

そこにあったのは、

「そんな低レベルなことをする人間になるものか」という、

歪んだ気持ちだった。

 

そうやって、相手を見下すことによって、心の安定を保つようになっていったのだ。

習い事

習い事には沢山行かせてもらった。

エレクトーン、スイミング、習字、英語、太鼓、塾、進研ゼミ…

数えてみただけでもこれくらいはある。

 

始めたきっかけは覚えていないが、強制ではなかった。

ただ、それらのことに興味を持った私に、

母は必ず「やりたい?」とは聞いたと思う。

 

私は「やりたい」と言えば、母が喜ぶことを学習していたため、

「やらない」と言うことがなかった。

続けることも、「やらないと言う」ことに比べれば苦ではなかった。

(唯一サッカーだけは、始めたもののどうしても嫌で辞めた)

 

また、習い事をしていれば、放課後「友達を誘って遊ぶ」ことからも逃れられたので、当時はそれで良かったのだと思う。

(家で漫画や絵を描いていることが大好きだったのだが、友達と遊んでいないとまた心配されるという「恐れ」があった)

 

ただ、自分から「どうしてもやりたい」と言ったものではなかったため、エレクトーンの家での練習は苦痛だったし、英語の塾では始まる前に漫画を読むのが一番の楽しみだった。

高校生か大学生の頃に、母が「やったこと全然実にならなかったね」と言った。

それもまた、心をモヤモヤさせた。

 

 

自分から心から「やりたい」と言って始めたものは、合唱だった。

歌うことでみんなが褒めてくれたから、大好きだった。

こればかりは不思議なことに、今誰も褒めてくれなくとも大好きで、

大人になってからもずっと続けている。

お誕生日会

母は、「私に友達がきちんといること」に安心していたように思う。

私の中で割としんどかった記憶として残っているのは、「お誕生日会」だ。

 

母が「誕生日会をしてほしい?」と聞いた。

この聞き方は100%私からの「してほしい」という返答を期待している。

なんとなく嫌だったが、嫌な気持ちを抑えることを学んだ私は、期待には応える他はない。

母は「お友達を誘いなさい」と言った。

 

もともと、2人または3人で勝敗のない穏やかな遊びをして過ごすことが好きだった私は、複数人の友人と遊ぶという事が苦手だった。

複数人での遊びには、多く「勝負」が発生するからである。

「お誕生日会」には勿論「勝負」はない。

 

しかしながら、

そもそも「自分」を祝ってもらうために、

自分からやりたいと言い出したことではない「お誕生日会」に、

自分から複数の友人に声をかけるということが、

私には大変なストレスだった。

 

なんとか声をかけ人数を確保し、当日は祝ってもらうことに喜びを表現し、母に感謝を伝える、という一連の流れが終了したとき、疲れてどうしようもなかった。

 

友達は楽しんで帰っていった。

母は娘が喜んだと満足している。

私は「自分の嫌な気持ちは良くないものなのかもしれない」、

「楽しいと思わない自分が悪い」と、

やはり感情をしまい込んだのだった。