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やりたくないこと・やりたいこと

<やりたくないこと>

・人の代わりの営業(自分で責任をもって最後まで仕事をしたいから営業したい)

・思っていることを押し込めること(苦しい)

・目標、計画を立てること(まだまだ経験が足りない。目的なんてわからない。毎日笑っていられることが一番)

・自分のやることでいっぱいいっぱいになってしまい、子どもを見ないこと(ちゃんと見ていてあげたい。認めてあげたい)

・できないことに対してイライラすること(できなくてもしょうがないと思えるようになりたい)

・悪口を言うこと(言うなら信頼出来る、全く関係のない人に言う)

・人をジャッジすること(上にも下にも見ないようにしたい)

・自分を卑下すること

・満員電車に乗る

・職場に通う

・スーツ着る

・お化けが出るところに行く

・価値観が合わない人と一緒にいる(苦痛!)

・早起き(ゆっくり寝たい)

・大人数の飲み会でお酌に回ること(ゆっくり飲んで、ゆっくり話をしたい)

・暑すぎること、寒すぎること

・徹夜(気持ち悪くなる、できない)

・腰痛、肩こり

・「自分の何がいけなかったのか」と考えること(全部相手が思っていること)

・勤め人(自分で仕事したい)

 

<やりたいこと>

・Webマーケティングの勉強

・デザインの勉強

・事務作業

・現在の支援先の仕事

・会いたい人に会いに行くこと

・朝昼晩ご飯を作ること

・資料作成

・ミシン(楽しい!)

・一眼で写真を撮る

・合唱(楽しい!)

・時間を守ること(相手を大切にすること)

・3歳まで子どもとの時間をたっぷりとること

・自営(稼ぐのも自分、稼がないのも自分)

・「社長」「社員」としての関係ではなく、「ビジネスパートナー」として関係を持ちたい

・猫を飼う

・鳥を飼う

・年に2回は家族で少し遠くに出掛ける

・車に乗る

・人のためにお金を使えるくらい稼ぐ

・自分にできることで人の役に立つ

・自分の意見をはっきり持つ

・自分の意見をはっきり言う

・絵を描く

・いつも一緒に過ごせる友人を持つ

・楽しく暮らしたい

・ヨガ(体を柔らかくしたい)

・スキー(またやりたい)

・子どもと一緒に仕事に行く

・人から何を言われても貫き通すこと

・野菜を作ること

・美味しい調味料を使って料理を作ること

・お菓子作り

・自由に生きている友人を作る

・心理学の勉強

自分で自分を許す

高校生、大学生の頃は、自分で自分を許すことができなかった。

すべて自分が悪いと思いこむことで、辛さから逃れようとしていたのだ。

大人になって、流石にもうそんな風には考えていないと思っていたが、陰口を言われたときに「自分の何がいけなかったのか?」と考えたことで、まだ引きずっていたと気がついた。

 

「自分の何がいけなかったのか?」は、一見反省しているように見えて、自分の人生に責任を持つことから逃げていることだったんだな。

直接言われるまで堂々としていることが、自立への道だ。

 

陰口は、相手の「考え方」や「捉え方」だ。

自分には関係がないことなのだ。

陰口

「空気読めないよね」

「自分のことしか考えていない」

 

人に陰口を言われたとき、小ばかにされたとき、自分の全てを否定された気分になった。

私のこと、何も知らないのに、なんでそんなことを言うのだろうかと悲しくなった。

陰口を言っている人の周囲の人も、一緒に言っているのだろうという想像が働き、その場に行くのが苦しくなった。

 

なるべく自分から関わることをやめた。

でもその場に行かなければならない。

顔を見るだけで嫌な気持ちを思い出してしまう。

自分は相手の悪口を言うものか!と思うと、「別に気にしてないし」と自分に強がるようになる。辛い感情は心の奥に押し込められる。

奥にあるものが、毒のように自分を苦しめる。

酷いときは胃潰瘍になった。

 

いつも孤立のきっかけは、陰口を聞いてからだ。

自分から引くようにフェードアウトする。

「仲間」になれず寂しかった。

 

常に「自分の何がいけなかったのか」を考えた。

非はすべてこちらにあるように思い、辛かった。

本当に悪いのか、言っているだけなのか判断がつかなかったからだ。

 

自分を許せなかったから、相手を許せなかったんだろうなぁ。

殻を破る

人に「認めてほしい」自分がいることはわかっていたけれど、

それをまさか多くの人の前で言えるとは思っていなかった。

 

「やりたいことを見つけたい」なんてこと、

知っている人たちの前で、

不安なく、泣きながら言えるなんて思っていなかった。

 

今までどんなに自分で自分に「頑張ったね」と言っても意味がなかったものが、

なんだかそれだけでとても凄いことだと自然に認めることができた。

 

誰かに見守られながら、感情を口にする。涙を流す。

 

思えば、感情を一人で処理していた時は、共感してくれる人が誰もいなかったという事だ。

一人の世界に絶望して、「もう済んだこと」と考えるしかなかった。

 

人の助けが必要だったのだ。

どす黒い気持ちを持っていると思われるのが嫌だと、そんなことよりも、どう思われようとも辛さを聞いてもらうことの方が大切だったのだ。

 

愚痴を、聞いてくれる人に言えるようになりたいな。

そうすれば、愚痴を言っている人に対して感じていた嫌悪感を感じずに済むようになるんだろうな。

子どもに願うこと

私が親にできなかった反抗を、とにかくしてほしいと思う。

反抗は、安心感があって初めてできるものだ。

どんな言葉を発しても、どんなにひどいことをしても、何事もなかったように受け入れてくれる場所があるから反抗できるのだ。

 

高校生の頃、母に

「お母さんみたいに、地元にずっといるとかしたくない!お母さんみたいになりたくない!」と言ったことがあった。

思えば唯一の反抗の文言だったと思う。

 

しかしその後母は、直接だったか手紙だったかは忘れたけれど、

「そんなことを言われて悲しかった」

と伝えてきた。

 

「今まで散々尽くしてくれた母に、とんでもないことを言ってしまった」という罪悪感だけが私の中に根深く残り、"母を悲しませてはいけない"というトラウマとなってしまった。

 

子どもが、「お母さんなんて大嫌い!」と言うことはおかしなことではない。

感情をうまく表現できなかったり、言葉が足りない中自分の気持ちをめいっぱい伝えようとして出てきた表現に過ぎず、本心からではない。

言っている本人だって、混乱した気持ちを分かってほしいという辛さでいっぱいなのだ。

 

それを自分都合で解釈し、「悲しかった」と伝えることは、なんて残酷なのだろうか。

親の「わかってほしい」は親自身で解決してほしい。

子どもに「わかってほしい」を押し付けないでほしい。

「わかってほしい」のは子ども自身なのだ。

 

私は、十分に反抗ができなかった。

2~3歳の頃は怒られ、外に出され、恐怖を植え付けられ、

中高生の頃はそのトラウマから反抗の芽が出ることを自分で押さえつけ、人に相談することなく自分自身で感情の処理をしていた。

今、親になろうとしている中で、「母のようにはなりたくない」と改めて思い、子どもには大いに反抗できる状態にしたいと願っている。

 

私は子どもをいつでも抱きしめることができるだろうか?

「そうかそうか、そうだったのね」と落ち着くまで撫でてあげることができるだろうか?

怒られて泣いていた自分を投影してイライラすることをやめることができるだろうか?

 

今はまだ不安で仕方ないが、こう思ったことだけは記録として残したいと思う。

弟のこと

弟は、私と正反対に見える人生を生きていると思う。

 

①「やりたいこと」をやっている。

彼はサッカーが好きで、「サッカーをやりたい」と言ってずっとそれを楽しんでやってきた。

習い事はスイミングに通っていたきり。

私のように「別にやりたくないこと」に対して「やりたい」と言うことがなかった。

お年玉で好きなゲームを買って、雑貨で自分好みの部屋にして過ごしていた。

勉強はあまり好きではなかったのだろう、全然していなかった。

弟と自分を比較することで、「学がある、自立している」とちっぽけなプライドを守っていた。

 

②地元の友達が多い

サッカーの仲間、クラスメイトと、彼は地元にとても友達が多い。

私は進学、就職、結婚と移住をすることを選択してきたが、今「いつでも連絡しても大丈夫」だと思える友人は、地元の2人だけだ。

親密な関係を作ることを拒んできたからだ。

相談できる友人、愚痴が言える友人がいることが羨ましい。

 

③しっかり親に反抗してきた

私は思春期に目に見えて親に反抗することがなかった(そもそも先だった安心感がないので、反抗のしようがない)。

反抗期がないのは、自立しているからだと思っていた。

弟は明らかにわかる形で反抗期を迎えていた。

「私はこんなに苦しいのに」と言う気持ちを、やはり「反抗しないできた姉」という捉え方で押さえていたのだと思う。

 

④実家の世話になっている

私立の短大を出た彼は、実家に戻って就職した。

家賃を入れるわけでもなく、親から借金をして車を買っていることに、無性に腹が立った。

なぜ自分は自立して親の世話になっていないのに、弟は恩恵を受けているのだ?!と思っていた。

 

彼は悪いことはひとつもしていないのだけれど、何かと彼に対して腹を立て、「自分は正しいのだ」と思おうとしていた。

自立の勘違い

大学入学、念願の一人暮らし。

引越し初日から、部活動の勧誘で先輩方が回ってきて、部室に連れていかれた。

入学前に友人ができた。

ホームシックになる暇もなく、毎日ものすごく楽しかった。

小さい頃家に帰るのを嫌がったことを思い出し、

「私は本当に自立しているんだなぁ」と考えていた。

 

今こそ、精神的な自立など全然しておらず、

ずっと「認めてほしい」「話を聞いてほしい」の呪縛の中で生きてきたとわかる。

他人に依存しきっているとわかる。

 

自立には4種類あるそうだ。

「身体的自立」「精神的自立」「経済的自立」「社会的自立」。

そのうち、精神的自立には4つのポイントがあるという。

 

精神的な自立のポイントは次の4つです。

 

1. 自分の軸がある(依存していない)

 価値基準、評価の軸や、自分の感覚感情の軸があることです。

2. 影響を受けない(巻き込まれない)

 影響を受けるということも「依存」(自立していない)と考えるとわかりやすいでしょう。

3. 自分のエネルギーを自分で賄える

 自分の精神的なエネルギー(喜びや生きがい)を理解し、生きていることに意味を見いだせる。

4. 上手に人と助け合える

 よく「精神的に自立」というと100%他人に頼らない、のようなイメージをされますが、人との境界線や、責任の範囲がわかって、人と同調ではなく調和できる状態が理想です。

 

 人は集団の生き物なので、一人では精神を病んでしまいます。

 まだまだ、精神的な自立にはたくさんの要素がありますが、こういった要素が合わさって精神的な自立となります。

 

精神的な自立のポイント | 永久変換型「アダルトチルドレン克服」10のメソッド

 

自分に「"認めてほしい"という気持ちがあると認める」までは、4つすべてできていると思っていた。

特に大学1年生の頃は、親から経済的に独立したいという思いが強く、生活費としてもらった仕送りに一切手をつけず、アルバイトで賄っていた。

(学費と家賃はがっつり依存していたが、そこは通帳に現れなかったのでまったく気にしていなかった)

 

家ではまったく手伝わなかった、炊事・掃除・洗濯も、楽しんでやった。

「自分一人でも生きていける感覚」「親に頼らず自分で食べていける感覚」が気持ちよくて仕方がなかった。